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「一歩 踏み出す」研修会の振り返り

2020年07月18日
本日(7月18日)の「子どもと家族の研修会」には高山村での現実参加が2名、zoomのオンライン参加が2名、計4名の会でした。

今のところ、オンラインとオフラインをミックスさせた研修会のやり方を実験中です。
オンラインはオンラインに限定して高山村か大森で、
オフラインはオフラインに限定してzoomで、
やった方が、やりやすいのではないだろうか。
あるいは、ミックスしてもやれるだろうか。
それを実験しています。

今日の研修会の印象では、オンとオフのミックスも十分やっていける感触を持ちました。
・オンラインを介した音声・画像の伝達がスムーズにいくか?
→前回は、私のネット回線状況が悪く、zoomが途中から固まってしまいました。
今回は、そのようなこともありませんでした。
今日のリモートからの参加者もzoomには慣れていらっしゃる方達でした。

・現実で会っている参加者に比べ、オンラインの参加者は気持ち的な距離感が遠く、置いてきぼりを感じるのではないだろうか?
→以前オンラインで参加した方からはそのような感想もいただきました。
今日は、私はそのようなことは感じず、オンラインの参加者とも気持ち的には近い距離でいれたように感じました。参加した方々はどうだったでしょうか?

参加者からの振り返りをご紹介します。

 自分の価値観や言語的、あるいは非言語的コミュニケーションのパターンは、自身の原家族に依拠していると改めて実感しました。
 結婚後、生まれも育ちも違うパートナーと生活する中で、相手の価値観やコミュニケーションパターンと折り合いをつける作業をしていますが、自分にとっての当たり前は、全然当たり前ではないと身をもって実感しています。
 本日の対話の中に、「夫婦にとって子どもは等距離だが、親は等距離ではない」「昼食のメニューは譲れても、子育てや親の介護では譲れないこともある」という言葉ありましたが、なるほどと思いました。私の祖母の世代では、「結婚して半人前、子どもを育てて1人前」という言葉あったそうですが、この文脈で考えれば、なるほどと思わされます(注:私は、結婚しな
い生き方、出産しない生き方を否定するつもりはありませんので、あしからず・・・)。
 特に、祖母の世代では、寿命の関係で介護が問題になってくる方たちは少数だと思いますので、まさに上記の言葉は、自分を変化?成長?させることができているのか?ということが、問われているのかと思いました。
 翻って、現代の事情に目を向けると、夫婦間の決断場面に、従来の子育てに加えて介護問題も加わり、穏やかではないなと思いました。子どもは授かりものですが、親の介護問題は避けては通れません。いろいろ勉強になった会ですが、その一方で、胃が痛くなってきました(苦笑)

本日は、家族内のコミュニケーションのパターンとして、
・感受性による折り合い方
・言葉による折り合い方
のふたつについて説明しました。
 感受性とは、どちらかと言うと受け身の姿勢。相手の意図を受け取り、それに合わせようとする姿勢です。文化的にも「以心伝心」の受け取り方は日本人が得意とします。お互いに相手のことを知っているという前提で話が進み、うまくいけば言葉を使わずにスムーズにことが進みますが、基本的に我慢することを前提にしているので、うまくいかないと我慢しすぎて辛くなります。
 言葉とは、どちらかと言うと能動的な姿勢。自分の意図を相手にうまい言葉で伝えようとする姿勢です。文化的には欧米的というか、日本人はあまり得意ではありません。お互いに相手とは異なることを前提として、うまくいけば合理的に整理します。言葉の発信力が必要なのですが、やり過ぎると喧嘩になって分裂してしまいます。
 このふたつのどちらが良い悪いということではないのですが、人それぞれにどちらが得意かという好みがあります。私は後者が好きです。サイコセラピーも基本的に言葉を使って自分自身や他者を理解しようとしますので、後者を志向しているのだと思います。

 今日のお山は>
そして今日もよろしくお願いしますの方々との研修会でした。
 元々が人前に出るのは緊張しいなので、研修会等に参加させて頂く時はいつも少し自分の中のアクセルを踏んでいきますが、ここは>
 この空間の中で、今日も本当に心のエネルギーになる言葉に出会うことができました。
そのひとつが、参加者の方から
「一歩を踏み出す」お話がありました。それをお聞きしながら、私の中では>
「その一歩を踏み出すのはあなたにとって、横(右?左?)ですか?>
の一言に
「え〜?>
 もしかしたら、そんな事は考えなくても普通にできていることだから、今更そんなふうに驚くなんて返って私のその反応にびっくり!と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、とにかく私の中ではブラボーでした。
 自己弁護させて頂くと、生きづらさを抱えた家族との生活は、本当に必死で大変なんです。それでも無理やり笑顔を作って生きていることもあります。そんな中、一歩でも前へ進むことが(良いほうへ向かってくれることが)親としての使命感にも近いものがあったのかもしれません。というか、それしかなかったのですね、今までは。
 今はこうして、田村先生のもと安心できる場所で>

 反抗期について皆さんのお話を聴かせて頂いてとても良かったです。自分のことを語っているうちに、私にも反抗期があったことに気付かさせてもらいました。もしかしたら私の場合は「気付く」というより「認めた」のかなぁ…。
 以前に家族には『こんなこと(父親に反抗したこと)あったよねえ』と話をしたことがあったのにも関わらず、あの場では「私には反抗期がありませんでした」となぜ話始めたのか?
 多分私は「私は過酷な子ども時代を生き抜いてきた」という自分の悲劇のヒロイン(?)物語を土台に持っていたかったのかもしれません。真っ先にネガティブな記憶が自分の中で甦り、他人に解ってもらいたいと思っていました。でも話しているうちに自然にポジティブな記憶に繋がって「あっ!反抗期あったな」と素直に認められました。そしてその私の心の流れを丸ごと皆さんに受け入れてもらったような感覚があります。
 娘の反抗期について「これでいい」とだいぶスッキリして家庭に戻りましたが、あっという間に日常に飲み込まれ気持ちが波立ってしまいました(笑)。でも、今までよりどこか余裕を感じているのは確かです。又、私の妹に私の反抗期について聞いてみました。すると実際は私が覚えているよりもっと激しい反抗を私は親にしていたことが判明しました(^_^;私の過去の物語を妹の立場で見ると決して悲劇ではないのです。なんだか笑ってしまいました。
私の心のこだわりが一皮むけた感じです。ありがとうございました。

 自分の人生の物語を更新していくのが物語療法(>
 過去の歴史は変えられませんが、歴史の教科書は改定されます。