7月4日の「子どもと家族の研修会」のご報告です。
参加者は3名。
みな、支援者の立場の人たちだったので、グループSVのようになりました。
参加者からのフィードバックです。
今日は、「死」をテーマとなった事例を2つ出しましたが、事例を出してよかったと改めて思いました。クライエントを失った経験を自分の中で消化し切れていなかったため、クライエントの死を経験したスーパーヴァイジーのサポートの仕方に自信を持てずにいました。結果的には、計画していた内容でよかったので安心できましたが、この場は、自分にとっても、スーパーヴァイジーにとっても重要になる場だと感じました。
スーパーヴァイジーの臨床家としてのキャリアは、これからも続くわけですし、そんな彼らのキャリアに影を落とすトラウマ体験となるのではなく、この経験が学びに、成長につながるようにサポートしなければいけません。しかし、そのような時に、スーパーヴァイザーがグラついていては話になりませんので、このような場で自分の方針を複数の視点から検証してもらうことは、スーパーヴァイザーとしての成長につながると感じました。
クライエントが語る「死」にどう向き合い、どう支援するかということは、セラピストにとって試金石であります。クライエントうまく支援できるという体験がセラピストの成長につながりますが、「死」に関わることはそれが最も顕著に現れます。
なぜなら、「死」はさまざまな強い感情を呼び起こすからです。
たとえば、
一人称の死:自分の死に対する恐怖・不安
二人称の死:大切な対象を失う喪失に伴う悲しみ
三人称の死:クライエントの死は、セラピストにとって失敗体験であり自信喪失につながります。また、クライエントとの治療的な愛着関係を形成していれば、セラピストにとっての喪失体験でもあります。
自殺・自傷行為:自ら死を選ぶことは、生きている我々の価値観に真っ向から相反しますからその気持ちに共感することが困難であり、タブー視、偏見、怒りなどの気持ちが表れます。
クライエントが語る「死」を冷静に受け止めることはセラピストにとって困難であり、
家族であればなおさらのことでしょう。クライエントの家族も支援することが重要になります。
共感する中で巻き起こる心の中の強い感情に向き合い、その危機に対処します。
嵐の渦中にいながら、いかに冷静さを保つことができるか。
それが、支援者性を試される試金石であります。
客観的に考えれば、つまり距離を開けて理屈で考えれば、それほど難しいことではないのですが、
主観性の渦中にいて、感性的に巻き込まれた状況の中では、自分の客観的な立ち位置を確保することはとても困難です。
閑話休題。
毎年繰り返される梅雨末期の豪雨災害ニュースを昨夜もテレビで観ていました。
高台で安全を確保しているアナウンサーが大量の水が氾濫しそうな河川の様子をバックに、危機的な状況を、冷静にしゃべっています。
現場は危機です。
しかし、テレビで観ている私は、その危機感を理解しても、危機的な感情は伝わりません。
もし身内や知人が現地にいたとしたら、ドキドキしてパニックになるでしょう。
スポーツ中継のアナウンサーは、自身も興奮した口調でしゃべりますよね。サッカーのゴールとか、オリンピックの中継とか。
災害中継でも、アナウンサーが同様に興奮してしゃべったら、どうなるんでしょうか???
エンターテイメントではないから、興奮は伝える必要がなく、冷静な対処行動を伝えたいんですよね。
コロナでも同様か!?