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日本と世界のひきこもり事情

2018年12月04日
世界的に見ると、ひきこもりがこれだけ大きな社会問題化しているのは日本だけである。韓国、中国、台湾などのアジア諸国でも不登校・ひきこもりは問題にはなっているが、日本ほどではない。国際学会などで、ひきこもりについて発表すると、どの文化でも同様な現象は見られるが、比較的まれである。なぜ日本に多いのか?その根底にある日本社会の文脈を、他の社会と比較しながら考える。

韓国ではひきこもりに加え、ネット依存症が大きな青少年問題となっている。専門家の臨床経験は、ひきこもりは日本から韓国へ、ネット依存症は韓国から日本へ伝達されている。日本のひきこもり対策、例えば専門家による精神・心理支援、行政の取り組み、民間NPO団体による自主的な民間支援などは、他の国には例を見ない。韓国ではネットに依存する子どもたちのための治療的キャンプが公費負担で行われ、日本でも注目されている。

私は先日、中国でひきこもりの理解と対応についてワークショップを開いたが、人々の関心が非常に高い。カウンセラーだけでなく、当事者の親たちが広い中国の国土の遠方からやってくる。経済が急速に発展し、人民の生活レベルが向上するなかで、今までなおざりにされてきた心理支援のニーズが都市部の中流階層を中心に急速に高まっている。一人っ子政策や労働力の都市部への流入、厳しい学歴競争社会の中で、不登校の問題は増大している。しかし対応できる専門家が少なく、専門家への教育・研修システムもほとんど整っていない。韓国や中国でも、今後、日本と同様に、学童期の登校拒否が長期化して、ひきこもり、さらにはそれの長期化・高齢化といった問題が将来は懸念されるが、今のところそのような言説はない。

欧米でも、ひきこもりと同様の状態像は存在するが、アジアほど頻度は少ないし、専門家の間でもあまり問題にされていない。むしろ若者の問題はドラッグや犯罪など、家の中ではなく家の外の出来事である。

原因や背景を抜きにして考えれば、自立して生活する資質を持たない若者は、残念ながらどの時代、どの社会にも存在する。彼らがどこにいるかということが文化によって異なる。

アメリカではこの春、家を出ようとしない30歳の息子を両親が裁判所に訴えたケースが全米のニュースとなった。長い間家に滞在して何の仕事もせず、家を出るための一時資金を渡して出るように促しても一向に実行しない息子に親が業を煮やした。アメリカの世間一般の常識では、成長した子どもは家から出るのが当たり前で、実家に留まるという選択肢はありえない。息子が心理的・経済的に自立できず困っていたとしても、それはあくまで息子の問題で、親が関与するべきではないと考える。社会の中で機能する資質を持っていない若者もみな家を出るのので、社会の中で孤立しホームレスとなる。アジアでは親子の相互扶助が当たり前で、社会に適応できない子どもの面倒は親が見る。自立できない子どもを親が放り出すという選択肢はない。せいぜい罪悪感を抱きながら施設や病院に保護を委ねる程度だ。ひきこもりは家の中での孤立、ホームレスは社会の中での孤立した状態である。アジアのひきこもりと欧米のヤングホームレスは、居る場所が異なるだけで、根底にある問題は同じである。

アジア文化とひきこもり

家族療法で用いられているシステミックな視点は、問題を抱えた個人を超えて、家族、コミュニティ、文化・社会など、本人をとりまく関係性や環境に視点を広げる。その観点から、アジア文化とひきこもりの関連について考える。

第一に社会と家族から若者に課せられた高い教育期待である。教育制度や教師の資質に問題があり、それがひきこもり問題に関連することも否めないが、それ以上にアジア文化の根底は教育に対する高い志向性が流れる。どの社会においても若者が成長する中で教育は重要であり、教育レベルにより将来の職業のレベルも決まる。しかし、それが人間の価値にもつながり、社会全体で高い教育レベルを目指そうとするのはアジア文化の特徴である。他の文化では、アジアほど教育レベルが自尊心の格差を生まない。教育は重要であるが、それがすべてではない。
 日本社会における教育期待の高さは1970-80年代の高度経済成長期がピークであった。「教育ママ」が熱心に子どもに寄り添う家族関係は、社会に活力があり発展志向が強い今の中国や韓国で観察できる。一方、日本ではバブル経済が崩壊する1990年以降は、それまでのあからさまな形での親からの教育熱は影を潜め、高学歴を目指す風潮は落ち着いたものの、親から子への期待は相変わらず高い。

第二に家族内凝集性の高さである。親子相互の扶養義務意識は永続的であり、「親孝行」は儒教的な時代遅れのフレーズに聞こえるが、アジア文化の中に依然しっかり根付いている。親子がお互いに元気で自活していれば離れていられるが、幼少時や高齢期、病気、怪我や障害など、親子のどちらかが自活できず支援が必要な時は家族の凝集性が高まる。それは美徳などではなく、「当たり前」なのだ。
欧米の家族でも親子の愛着関係は一生続くが、アジアに比べると心理的距離が遠い。家族メンバーの幸せの責任をだれが取るかという感覚が異なる。アジアのように家族関係が近ければ連帯責任であり、欧米のように家族が個別化していれば、幸せを成就するのは各自の責任であり、個人の自我境界線を越えて援助するのは、個人の人格の尊厳を否定することになる。

 青年が自立し、社会性を獲得するプロセスは容易ではない。学校でいじめられたり、友人から裏切られたり、教師から叱責されたり、成績が低下して親の教育期待にかなわないなど、何度も失敗体験をくり返す。失敗体験にめげず、何度も困難に挑戦する中で、いつか成功体験を獲得し、若者は成長していく。しかし、失敗体験に傷つき、社会化という挑戦をあきらめてしまうケースがひきこもりにつながる。

 日本やアジア諸国での不登校・ひきこもりケースに多く接し、共通して観察されるのは、家族内にはびこる大きな不安である。たとえば次のような例である。
1)成績が低下した。今までは成績がある程度良く、積み上げてきた自分のプライドを保つことが出来ない。このままだと自分が望んでいる、あるいは家族が望んでいる将来が得られないかもしれない。家族からの期待は絶対的であるため、自分のプライドを下げることができない。
2)人と関わる不安。友だちにいじめられるかもしれない、友人関係をうまく作れないかもしれない。

家族の不安としては次のような例だ。
4)パートナーの協力を得られず、親がひとりで子どもに関わらねばならないという孤独感
5)反抗期の子どもの攻撃性に向き合えないという不安
6)親として子育ての責任を負い、それが失敗してしまったという自信の喪失
7)子どものこと以外に、親自身の人生における不安を抱えている場合などである。

日本のひきこもりの特徴

日本のひきこもりは、他のアジア諸国には見られない大きな特徴がある。
日本以外のひきこもりは、親とのコミュニケーションがうまく成り立たず、学校や社会における帰属集団は失っていても、個人的な友人など、特定の誰かとは繋がっているケースが多い。日本のように、外部とのコンタクトが全くなく、唯一の接点が家族だけで長年経過するのは日本独特である。
日本の文化症候群とされている「対人恐怖症」は、他者に対する過剰な配慮が不安に転じることに根本的な要因がある。DSM-5では対人恐怖症を「社会的交流において、自己の外見や動作が他者に対して不適切または不快であるという思考・確信によって、対人状況が不安になり回避する文化症候群」と定義されている。

お互いに遠慮し合うコミュニケーション様式も日本に独特である。「場の空気」、つまり暗黙の了解事項としての対人関係のルールを読み取ることは、高度な社会性テクニックを要する。対人関係における非言語的メッセージである「空気」を読めないのは自閉症スペクトラム障害にも共通している。この観点からみると、ひきこもりは思春期・青年期における「仲間入り」の失敗ともとらえられる。つまり、自分の家族以外に、自分が肯定的に受け入れられているという安心で満たされた居場所を見出すことができない。ここでいう居場所とは、学校や職場など、家族以外でその人が所属し、安心できる関係性を築く所属空間のことである。