こういう私の家族体験は、職業選択にも当然のことながら影響した。
医師になり、不登校・ひきこもりなどの思春期臨床を選んだのは、それを強く勧めた稲村氏の影響だ。まだ新しい分野だから手を付けている人が少ないという彼の熱意に動かされた。
しかし、彼には熱意はあっても理論モデルがなかった。我々弟子たちは各自それぞれが発達障害・統合失調症などの疾患(医学)モデル、精神分析などの心理モデルなどのさまざまな準拠枠を模索した。私が家族システム理論に乗り込んでいったは師匠や研究室の仲間に影響されたわけではなかった。1984年にミニューチンが来日して家族療法学会が立ち上がった時、私は27歳で大学院生だった。家族に興味を持っていたのだと思う。
私は30歳で結婚し、その翌年から3年間、ロンドンで家族療法を学んだ。
Virginia GoldnerがFeminism and family therapyについて講演した。
セラピーにおけるGenderの視点を初めて知り、とても新鮮だった。
当時は新婚時代で、夫婦関係の基礎を築こうとしていた。
帰国して、ふたりとも就職して、子どもを作る準備が整った。
36歳で父親になった。
私にしっかりとした父親が居てくれたように、私も子どもたちのしっかりした父親になりたい。父親モデルがあったのでイメージはつかめたはずだが、もっとしっかり極めたい。
当時、ジェンダーの視点は主に女性側からのアプローチだった。
家族療法の学会で、二人の年上の男性(中村伸一とDavid MiGill)が男性性のシンポジウムをやっていた。私も後輩として仲間に入れてもらい、その関係性は現在も続いている。
初めてMaurizio Andolfiと出会ったのも私が40歳の頃、駆け出しの父親をやっていた頃だった。2週間の集中グループトレーニングの中で、セラピスト自身の感性に迫り、男性も弱さを感情表出しても良いということを彼は示してくれた。Maurizioとの関係も、今でも継続している。
このようい振り返ると、私は多くの年上の男性と出会い、親密な関係を継続し、男性モデルとして取り込んできた。
一方、女性はモデルとはならなかった。今の臨床スーパーヴァイザーは女性で、多くの示唆をもらってはいるが、人生のモデルではない。恋愛対象はほとんどが年下だった。
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不登校・ひきこもり臨床では本人とは会えず、親と面談する場合が多い。臨床で出会う家族は、私が過ごした日米ふたつの家族と大きく異なっていた。父親が不在で、母親との距離がとても近い。なぜそうなるんだろうか?
支援者は、クライエントの病理や関係性を認知する時、自分の体験を準拠枠にする。
母親が心配するのはよくわかる。
それなら、なぜ父親はもっと関わらないのだろうか?
思春期の子どもたちを救うために、親の悩みをなんとかしたい。
戸惑っている家族を、特に男性を応援したい。
家族の関係性を変えれば、きっとうまくいくのではないだろうか。
そのような動機から、家族療法に入っていった。
母親のまなざしは、いつも不安を抱えていた。危険を察知し、守ろうとしてくれた。
それは、ありがたくもあり、束縛でもあった。
父親はソトの世界に連れ出してくれた。
山やスキーや、未知の世界へ。
危険を乗り越えて到達した達成感と解放感。
自分のテリトリーを増やせた自信。
そこには、遠くから見守ってくれる家族がいた。
人は、学校、仕事、結婚、子育てと、前に進んでいく。
不安も伴う。
思春期に前に進めなくなり、親は子どもの背中を押せなくなっている。
不安を乗り越え、前に進んでいく手助け。
リスクを乗り越え、変化を促す父性的な関わりが、私の原体験に由来した、支援の基本姿勢です。