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「先々心配性」と二種類の親の愛

2015年02月10日
「ひきこもり脱出講座」の参加者のお話です。

皆さんの話を聴いていて、私は「先々心配性」だと思いました。
子どものことについて、先回りして心配して、何かを言ってしまいます。

とても大切なことに気づかれましたね。
「心配性」と言われると、なんだか良くないことのように思われますが、親が子どもを心配することは当たり前。とても大切なことです。
逆のことを考えてみましょう。もし、親が子どものことを心配しなかったら、どうなるでしょう?子どもは危険にさらされますね。親は子どもを危険から守らなければなりません。子どもの先々のことを心配してしっかり守ってあげることが、親の愛情です。

しかし、もう少し深く考えてみましょう。親の愛情って何でしょうか?
私は親の愛情には二種類あると考えます。それをよく理解して、バランスよくこの二種類の愛情を子どもに与えれば、子どもはうまく育ちます。

二種類の愛とは、守る愛と放す愛です。順番に説明しましょう。

1) 守る愛
子どものことを心配して、予想される危険をあらかじめ予知して子どもの身の安全を守ります。
この世の中は危険に満ちています。安心していると痛い目に遭います。子どもはまだ自分を守ることができないので、親がしっかり保護してあげなければなりません。
この愛情は、子どもがまだ小さい時に特に重要です。子どもは、守られているんだという安全感を得て、この世の中は基本的に大丈夫なんだ、自分はこの世の中に生まれてきて良かったんだ、自分を守ってくれる親はありがたい、つまりいろんな人がいるけど基本的には自分の味方でいてくれて、自分がどんな悪いことをしても良いことをしても、変わらず絶対的な愛情を注いでくれるんだという、人格の核となる自信を得ます。人は自分のことをわかってくれるはずだ、守ってくれるはずだという安心の期待を得ることで、この世の中に安心して留まることができます。

2) 放す愛
もう一つが放す愛、これは様々な点で守る愛と180度異なります。正反対なんですね。
子どもは自分で身を守ることができるだろうと、子どもの潜在能力を信頼します。もしかしたら危険なことが起きるかもしれないと予期しても、親が子どもをも守らず、子ども自身がどうにか難局を切り抜けることを遠くから見守っています。
この世の中は危険に満ちています。何かに挑戦しても失敗がつきものです。しかし子どもが転んで痛い目にあっても(失敗しても)、自分で機嫌を直して立ち上がり、また歩いてゆけるだろうと信じています。親は心配だとしても、子どもに任せて、あれこれ手を出しません。
この愛情は、子どもから大人へ自立する時に特に重要です。親が手を出さず、自分に任せているんだ、つまり親は自分のことを信じてくれているんだという安心感を得て、自分でどうにか困難を切り抜けてみよう、がんばってみようというやる気が芽生えます。親は助けてくれないんだという諦めが、親に頼らず自分でどうにかしなくてはならないという気持ちに切り替わります。
でも、きっとそううまくはいかないでしょう。何度か失敗します。もう親に助けてもらいたい気持ちです。それでも、親が助け舟を出さずに子ども自身に任せているということは、よっぽど自分でできると思っているんでしょうか。そのような親の肯定的な期待感を受けて、子どもは辛いけどまた挑戦します。何度か失敗しているうちに、いつか成功する時が来ます。そのことを親はしっかり見ていてくれます。自分の力で難局を切り抜けることができたのだという体験が、辛くても自分でどうにかできるという自信につながり、親やまわりの人に頼らずとも自分でどうにかする自立心が芽生えます。保護者に守られ世界だけでなく、危険なことが起きるかもしれない世の中に飛び出しても、なんとか自分でやっていけるという自信を得て、社会の中に安心して留まることができます。

ただ、注意しないといけないのは、「放任」とは異なるということです。放任は子どものことに関心を払わず、忘れてしまっています。それではいけません。子どもが今どんな様子か、遠くから見守っています。近くで見守り手を出しません。子どもが転んだり失敗する様子をちゃんと把握しますが、救いの手を差し伸べず、黙って見ています。よっぽどひどい状態になれば手助けすることもあるでしょう。どれくらいひどくなるまで手を出さないのかが放す愛の難しいところです。

子どもが幼い頃は守る愛がメインです。子どもはまだ自分を守る力を持っていませんから。
しかし、子どもが成長して、自分で自分を守ろう、自立しようとする思春期以降は、放す愛がメインになります。
だからといって、放す愛だけで守る愛が必要ないということではありません。子どもが小さい時も、大きくなった時も、この両者は必要です。ただし、大切なことはその配分です。子どもが自立しようとしている時期に、守る愛の配分が大きすぎて、放す愛が少ないと、子どもは自立できません。

このように理屈で整理すれば簡単に聞こえますが、親がこの二つの愛を使い分けるのは実はとても難しいのです。

子どもに、親として言いたいことを言えないんです。
子どもに遠慮するなんておかしいのに、なぜか遠慮してしまいます。
親が言ってしまうと、子どもの状態がもっと悪くなるんじゃないだろうか、ひどくなるんじゃないかと心配します。
せっかくここまで話せるようになってきたのに、親が言うと、また自分の部屋にひきこもり、親子で話せなくなってしまうのではないかと心配します。
以前、子どもから「うるさい!」と言われたから、それ以上言えません。
子どもから拒否されたから、それ以上言えません。
子どもに言われて、親ががんじがらめになっています。

「親として言いたいことを言う」のは放す愛です。そんなことを言ったら子どもは傷つきますから。
「親が言うと、ひどくなるんじゃないか」というのは守る愛です。危険性を予知していますから。
両方が重なっています。これではどうしたらよいかわかりませんね。だからがんじがらめになってしまいます。

ひきこもりの子どもに、「親の気持ちを伝える」のはタブーだと言われてきました。
親の気持ちは何も言ってはいけない。「これからどうするの?」などと将来のことや、本人の不安を煽るようなことを言って、刺激してはいけません。

その通りです。ただし、それは守る愛がメインの場合です。
守る愛の基本姿勢は不安感です。危険を早期発見しなくてはいけないので。親が不安だと、子どもも不安になります。
放す愛を与える場合は、どんどん親の気持ちを伝えます。「これからどうするの?」と将来のことを言って刺激します。放す愛の基本姿勢は楽天的(安心)です。この子は今は転んでいるけど、自分で立ち上がり歩き出す力を持っているに違いないとなぜか根拠なく安心しています。「立ち止まらなくて良い。前に進んでごらん。失敗しても構わない、また立ち上がれば良いのだから」その言外には「だって君、そうできるだけの生きる力を本当は持っているんでしょ?」という安心感を子どもに伝えていることになります。子どもは言わなくても親の気持ちが伝わります。親の楽天的な安心感が子どもにも伝わります。だから、親が「これからどうするの?」と将来のことを言っても、本人は不安になりません。なぜなら、親が不安になっていないからです。

つまり、放す愛で子どもに接するためには、親の基本姿勢を悲観論(不安)から楽観論(安心)に切り替えなければなりません。子どもが小さい時は守る愛(不安)中心でやってきましたから、子どもが大きくなってもなかなか切り替えられません。しかし、きっかけが与えられ、親が一旦切り替えることができれば、親も楽になるし、子どもも楽になります。

従来は、
守る愛=母親の担当(母性性)
放す愛=父親の担当(父性性)
と言われてましたが、今はほとんど関係ありません。
性役割分業が明確だった一昔前にはこの色分けにも根拠がありましたが、今は違います。
ひとり親でも構いません。ひとりの親が、子どもの状況に応じて、このふたつの愛を使い分けます。守る愛が多すぎても、逆に放す愛が多すぎてもいけません。

ひとり親でも十分に可能なのですが、実際にはかなり難しいです。親自身がしっかりとした基盤を持ち、ぶれずにどちらの愛を使い分けるか状況に応じて判断しなくてはならないからです。
そのために、親自身もまた、誰かによってしっかりと支えられていなくてはなりません。
パートナーによってお互いに支えあいます。そういう意味ではふたり親は確かに有利です。
あるいは、家族以外の親族や友だち、あるいは第三者の専門家でも構いません。要はひとりだけでがんばろうとしないこと。だれかと共に、試行錯誤しながら二つの愛を大胆に使い分けます。